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ルーニィ杉守と作家の往復書簡 -読むギャラリー-3回目

2020年4月24日

ギャラリーにお越しいただくのが難しい今、
作家さんの仕事に触れる「読むギャラリー」を開設します。

ルーニィのディレクター・杉守と作家の往復書簡(全5回)
現在リコメンドウォールで「Toy」を開催中の成澤豪さん3回目です。

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成澤様

お返事ありがとうございます。
サイズ・余白から、フォルム・バランスの話に。

ルーニィは元々写真専門ギャラリーとしてスタートしたので、カメラやネガと印画紙、デジタルを道具に作品を制作されている方が圧倒的に多いです。
そうすると、作品を販売する際に展示は大全紙だけど、販売用にインチサイズもということがままあり、確かに東京のマンションで飾るには小さいと飾りやすいというのは理解できますが、作品は変わってしまうのです。もちろん、古典技法を除き、ネガやデータが「版」になり大きさを自由自在に変えられ、複製が可能なのが特徴ですが、「描かれている”情報”だけが作品を成しているのか?」と疑問に思うことがあったのです。
ここまで書くと「杉守、先に言ってよ」と成澤さんに怒られそうですが。。。サイズや余白のことを伺ったのはそういうことからでした。

決して大きすぎない成澤さんのToyは、幼い頃作った積み木の乗り物やお家(お家はありませんが。。)を思い起こさせるサイズ。
そして近づいて見たときの線に宿る緊張感。絶妙なバランスのなせる技なのだなと、お手紙を拝読しながら”なるほど”と膝を打ちました。
今まで拝見したすべての作品に感じた、一見した時の柔らかさや清潔感と鋭い緊張感、考え抜かれたバランスがお話を伺ってより一層、成澤さんの人としての印象と重なりました。

ギャラリーにおりますと、作品に関して意見を求められることがあります。
もっと新しいチャレンジをすべきなのか、とか
オリジナリティをどう出して行けばいいのか、というようなことです。
しかしながらオリジナリティというのは、「出す」のではなく「出てしまう」ものだと私は考えます。
なので雑談の中や、NGにした作品なども拝見して(写真だと無数に写していることが多く、既視感のあるものを選んでポートフォリオにして差し出されることがままあります)その方の興味や癖を探していきます。

生きている中で、アートに興味があり何か作ってみようという方は、人生の中で通ってきた作品、感銘を受けた作家がいると思います。
家族や友達、環境などもにも影響され、作品に漏れ出てくるものです。
杉守加奈子

追伸:最近プランターでルッコラを育てており成長を見守っております。
太陽の光を浴びて、一瞬昨今のコロナからの不安な気持ちを忘れ、その鮮やかな色にグラスグリーンタグボートを重ねて愛おしく愛でております。




杉守様

お返事ありがとうございます。
お手紙、大変興味深く拝読させていただきました。
ギャラリストとして、これまで沢山の写真家さんや買い手さんと出会い、そして数えきれないほどの作品を、見つめ続けてられてきたこその視点が、随所に感じとれる内容でした。僕はこれまで、個展を通じたギャラリー様との接点がなく、ゆえにギャラリストというお立場への不理解も多いものですから、頂戴する質問のその奥にある、意味することへの理解が遅くて、本当に失礼致ところです。ギャラリストとしての研鑽の積み方は、人によって様々とはおもいますが、杉守さんのお話から感じるのは、“作家と作品と自分”という、自分の手が届き、そして触れることができる、つまり関係性の確かさを前提とした中に芽生える、ご自身の正直な実感や手応えを大切にされておられるのだな、ということです。そしてこのことが、ルーニィのギャラリーとしての、独自性を彩るものであり、そして人々を惹きつける、魅力の核になっているのだなぁ、とあらためて感じます。

僕は自分自身が、作品と呼べるものを作りはじめてから、まだ数年でしか経っておらず、故にアートを語る際の言葉が貧しく、お恥ずかしいのですが、お便りに書かれていた、前回のご質問(サイズと余白)の背景にあった、「描かれている“情報”だけが作品を成しているのか?」という感慨について、僕なりに思うことを書かせただきます。
サイズは作品から聞こえる声のひとつで、大きいサイズだから深く鳴り響く声もあれば、程よいサイズならではの、心地よく親のある声というのもありますね(ちょうど楽器と音色の関係のように)。ですから、直感的な物言いですが、「ボクは、どんなサイズで作りたいのか…」や、「ワタシが感動した作品はどんなサイズだったか…」ということ、つまり作り手にとっても、鑑賞者にとっても、それは非常に大切ということですね。

また、杉守さんのお言葉の中にある、“作品を成すもの”について、自分の作品と、その制作過程を少しばかり省みたいと思います。
作品にかけた理想としては、それが僕の手を離れ、鑑賞者によって、自分のものとして、または、自分のこととして、見つめてもらえる状況が望みですから、その状況に少しでも届くために、作品制作で大切にしていることがあるとすれば、それは作品自体の“物性”であるように思います。支持体である紙(仕上がりの印象を左右するので、厚さや質感が大切!)はもちろん、版として切り出された紙(考慮するべきことが色々あって…これも厚さや質感が大切!!)も、版に対するローラーの塗り加減、そうして転写されたインキ部分、そのほか様々な要素が、互いの物性を活かしあえるように、試行錯誤します。その結果が目指すのは、作品を介した作り手と鑑賞者の、感情の共通了解で、そこに向けて如何にイメージや素材を、編み上げることができるか、が重要になります。これは、紙と絵柄を“地と図”のような分離した関係として見ているのではなく、すべての要素(物性、表現イメージ、製作者としての感慨、見てくれる方のための余地)が、ひとつのイメージに向かって織り混ざりながら一体となっていかないと、目指す作品には“成らない”というニュアンスが込められております。だから、前回のご質問にあった、サイズや余白「だけ」を抜き出して語ることが、器量不足で難しく、“フォルム”、“バランス”、“らしさ”、“可愛げ”などの話しに及ぶような、長〜い話となってしまうわけですね(話しは短いほうがいいです…笑)。

さて話しが移り、お手紙にはギャラリストとして、作品への意見を求められる、と書いていただいておりました。とてもやりがいがお有りなのだろうなぁ、と思う一方で、やはり大変なお仕事だなぁ、ともお察しいたしております。僕などは生来、緊張しやすく、加えて本当は大変に人見知り(ご存知の通り!)ですから、相手が求めることだとは言え、その発言に影響と責任が伴う状況を想像すると、勝手に胃が痛くなり、勝手に今夜は寝られなくなりそうです(笑)。杉守さんには、そんな数々のご経験の中で得た境地があって、”オリジナリティとは、出すのではなく出てしまうもの”というお言葉が紡げるのですね…。

ここで、そのお言葉を道標に、作家として、我が身を振り返るとどうか…。
自分の作品にオリジナリティがあるかどうかは、本来、他者の視点で語られることでしょうから、語る言葉を見出せないのですが、僕は作品制作において、目指すべきオリジナリティというものを、そう言えば考えたこともなかった!というとんでもない事実に気がつき、自分自身、ちょっと戸惑います(笑)。作家としてはダメ人間かもしれませんね(トホホ)。また、さらに気がついたことに、このことは、もしかしたら、影響を受けた特定の“作家”が思い浮かばない(さらにダメ人間!)ことと、関係しているかもしれません。

続けて、作家が受ける、“影響”ということについて、ちょっと考えてみると、僕は絵であれ工芸であれ、見るのも大好きで、一年を通じて、時間を見つけては、様々な作品に会いにいきますから、ときに感動したり、ちょっと疑問におもったりなども色々あるわけです。そんな作品との出会いと、その読後感がもたらす影響下に、一時的にでも入ることを思うと、影響を受けない、というのは矛盾するわけです。しかし一方で、どんな作品からどんな影響を受けたか、というエポックメイキングなエピソードを思い出せない、という実感(戸惑い)もまたありますから、もしかしたら、“影響”を受けたのではなく、影響下で“栄養”を受けとったのだ、と解釈すると、自分のこととしては、そんな矛盾がおおよそすっきり腑に落ちます。

先述の通り、僕は作家としてのキャリアが少なく、杉守さんの今回のお手紙の最後に書かれていたような、作家、作品、オリジナリティ…という話題に、正しく応える自信がすごく無いのです(笑)。しかし、多少、土臭い言いようになってしまうのですが、今、現時点で制作の日々で実感していることをナレーションするならこうなります。
この世界、つまり自分が生きる日常は“土(土壌)”のようで、僕自身はそこに埋まっている、草木の“根っこ”のようだと、いつも感じます。人は思い通りにいかないことへの、不安や恐れをいつも抱き、その悲しみは互いに呼び合い、この世界を覆うことさえあります。しかし一方で、そのような、人々の思惑や葛藤とは無関係に、僕たちが感受し得る、安らぎや美しさのエッセンスは、自然や偶然のリズム(因果)を淡々と守りながら、いつも、そこかしこに、たゆたっているのも事実です。日常を生きるということは、嬉しいことも悲しいことも、そうとは知らずに触れていくことでもありますから、それはまるで根っこの本性というか、成長のダイナミズムのように、自分をとりまく、様々な要素を孕んだ日常の中に、美しさの気配を感じると、またそちらへ向かって手足を伸ばし出すわけですね。そうやって土中から栄養を得て、生まれる作品は、樹木に生える双葉か若葉のようです。このあたりのことは、上手く言葉で表現できない、もどかしさがあるのですが、あくまで僕にとって、作品が生まれる瞬間というのは、実際のところ、生(う)んでいるというよりは、生(は)えてくるような感覚が近いようです。また、この視点で、オリジナリティの正体を考えてみると、実際にこの地球上にある土中の根っこは、どれも似ているようでいて、一つたりとも同じ形のものが無いわけですから、そう考えると、僕たちが、この世界に生まれてきただけで、すでに体現していること、それがこそがオリジナリティということかもしれませんね。

成澤豪

追伸:グラスグリーンタグボート、愛でていただき感謝です。もとは僕の土壌から生まれた(生えてきた)作品でしたが、ルッコラの葉の美しさによって、この作品が、杉守さんの土壌に、また生まれた(生えてきた)ようで、本当に最高に嬉しいです!

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